中国地方最高峰の大山は、天平五年(733)の『出雲国風土記』に「火神岳(または大神岳)」として登場するなど、古くから神の宿る山でした。神の宿る山にいつしか仏教が伝わり、地蔵菩薩への信仰が根付いていきました。大山寺は養老二年(718)に金蓮上人(きんれんしょうにん)が始めたとされており、その伝説も残されています。
「出雲国玉造という所に依道(よりみち)という猟師がいました。依道はある日、金色のオオカミが海から出てきたので、不思議に思って追いかけ始めました。するといつの間にか大山までたどり着きました。行き止まりになったので、弓を構えたところ、突然地蔵菩薩が目の前に現れました。驚いた依道が矢を放つのをやめると、地蔵菩薩は消え、オオカミは年老いた女性の僧侶へと変わりました。彼女は地蔵菩薩をまつって一緒に修行をするよう呼びかけました。その後、出家した依道は、金蓮上人と呼ばれ大山寺を始めました。」 (『大山寺縁起ノ巻』の内容を意訳)
大山には小さなお寺が多く集まっており、中門院、南光院、西明院と呼ばれる3つのグループ(三院)のいずれかに所属していました。三院はそれぞれ独自の信仰をもち、中門院は大日如来と霊像権現(本地:観世音菩薩)を、南光院は釈迦如来と金剛童子(本地:薬師如来)を、西明院は阿弥陀如来と利寿権現(本地:文殊菩薩)を大切にしていました。三院は争いを繰り返しながらも、大智明権現(本地:地蔵菩薩)への信仰を最も重要とする点で一致し、やがて13世紀前半までには「大山寺」という1つの組織にまとまっていきました。
大山寺は地蔵信仰の広がりとともに領地を広げ、中国地方でも強大な勢力へと成長しました。甲冑の一部や短刀が出土しており、「僧兵三千人」と言われたように武装していた様子が想像できます。
江戸初期の検地により、大山寺は領地のほとんどを失いました。その後、豪円(豪円山の由来となった僧)の努力もあり、幕府から三千石の寺領が認められました。往来の活発化と民間信仰の普及によって、大山寺は中国地方を代表する大寺院として賑わいました。
明治時代の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、明治8年(1875)には、大山寺号は廃絶となりました。大山寺の本社は大神山神社の所有となり、本尊などは大日堂へと移されました。
明治36年(1903)に旧大日堂を本堂として、大山寺は再出発します。その後、この本堂は一度消失しますが、伝統的な和様建築の様式で昭和26年(1951)に再建され、現在に至ります。
1つだけ願い事を思い浮かべてこの牛をなでると願いを叶えてもらえると言われています。人々の生活を支えている牛の霊を慰めるために、唯一の形見となる鼻ぐりの銅を集めて作られました。
大山寺は、日本遺産「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」に認定されているように、牛馬市が発展しました。また、大山の地蔵菩薩は牛馬の守り神であるという信仰も根付いたので、多くの人が牛馬の健康を祈り訪れていました。
本堂の前には「びんずるさん」(釈迦の弟子の1人)の像があります。自分の体の悪い部分と同じ場所をなでると、癒してくれるといわれており、なで仏として親しまれています。