文化二年(1805)に再建された西日本最大級の権現造の建物で、国の重要文化財に指定されています。
再建当初は大智明権現(本地:地蔵菩薩)をまつる大山寺の本社でしたが、明治の神仏分離によって大神山神社の奥宮となりました。
奥宮には新たにオオナムチノミコト(オオクニヌシノミコト)がまつられ、仏像はすべて取り除かれました。
しかし、内部には234枚の天井画や白檀塗の柱、鮮やかな壁画などが残り、その豪華さはかつての大山寺の繁栄を想像させます。
山頂付近の池から霊水と薬草を持ち帰る神事で、毎年7月14日夕方から15日朝にかけて行われます。「もひ」は水を意味する古い言葉です。神聖な山の恵みを求めて奥宮に集まる信者は、無病息災を願って霊水と薬草を受け取ります。始まりは江戸時代以前にさかのぼり、鳥取県の無形民俗文化財に指定されています。
かつては弥山禅定(みせんぜんじょう)と呼ばれ、大山寺の中でも特に過酷な修行の1つでした。毎年新たに選ばれた2名の僧侶が、お堂にこもって法華経を書き写すところから始まります。そして、旧暦6月14日の夜から大山山頂を目指して3名の先達と2名で登山を開始します。山頂付近の池に着くと、筒の中に書写した紙を入れ、前年のものを回収します。池から霊水、周辺からキャラボクなどを持ち帰り、下山します。
本社へ向かう参道には下山してきた僧侶を待ちかまえる老若男女が、痛いところを踏んでもらうと治るといって寝そべっていたそうです。また、霊水と薬草が配布されるときには人々が押し合い、大山が揺れたと言われています。
大山寺号が廃絶となったのちも、もひとり神事として大神山神社に引き継がれることとなりました。
ある日、大工たちは本社再建のために用意した太くて長い柱が短く切断されているのを発見しました。
責任者だった京都の宮大工三輪平太は、それが自分をねたむ地元の大工のしわざと知っていましたが、自らに責任を感じ大山寺を去りました。
思い描いた建物を完成させることができない悔しさから、三輪平太は石の大鳥居付近で自害してしまいます。
現在その場所にはお墓がありますが、わざわざ境内の外に出て自害したのは、大山の聖域を汚さないようにという、職人の最後の意地だったのかもしれません。