南光院に所属する社殿で、密教の修行者を守護する神様である金剛童子(本地:薬師如来)をまつっていました。
金剛童子と薬師如来が習合しているのは全国的にも珍しい現象です。
菩薩より格上の如来と習合していたためか、大山三所権現ではありませんが、利寿権現(本地:文殊菩薩)・霊像権現(本地:観世音菩薩)と同格とされていました。
寛政九年(1797)の絵図には権現造の建物として描かれています。
文政十二年(1829)に起きた洪水で壊れたため、翌年に川の対岸に再建されました。しかし、信仰が廃れていく中で、建物も仏像も失われていきました。
神仏習合は本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により定着した日本固有の信仰のあり方です。本地垂迹説とは「日本に古くから在る八百万の神々はみな、仏が仮の姿となって現れたものである」という考え方で、仏教が日本に根付くきっかけとなりました。神の本来の姿である仏のことを本地といい、仮の姿で現れている神のことを垂迹といいます。日本仏教ではその仮の姿の神を「権(かり)」に「現」れる、と書いて権現(ごんげん)と呼びます。
「ある時、大山の山頂に五つの池ができ、その中央の池から文殊菩薩・観世音菩薩・地蔵菩薩が現れました。その後、文殊菩薩は西へ、観世音菩薩は東へ去り、地蔵菩薩は中央に留まりました。これを三所権現といいます。」 (『大山寺縁起ノ巻』の内容を意訳)
大山寺では大山三所権現と呼ばれる神様が信仰の中心でした。大山寺本尊の大智明権現(本地:地蔵菩薩)、西明院の利寿権現(本地:文殊菩薩)、中門院の霊像権現(本地:観世音菩薩)の三柱です。
大山には小さなお寺が多く集まっており、中門院、南光院、西明院と呼ばれる3つのグループ(三院)のいずれかに所属していました。三院はそれぞれ独自の信仰をもち、中門院は大日如来と霊像権現(本地:観世音菩薩)を、南光院は釈迦如来と金剛童子(本地:薬師如来)を、西明院は阿弥陀如来と利寿権現(本地:文殊菩薩)を大切にしていました。三院は争いを繰り返しながらも、大智明権現(本地:地蔵菩薩)への信仰を最も重要とする点で一致し、やがて13世紀前半までには「大山寺」という1つの組織にまとまっていきました。