江戸時代の終わり頃、頼朝坊の供養として建立されたもので、会見、汗入の二街道の分岐点(博労座駐車場手前、分かれ道になる地点)にあるので「別れ地蔵」と呼ばれています。
この附近でその昔牛馬市が盛んであった頃、牛馬の鑑札を渡す番所があった場所に信者の一人が寄進したといわれています。
今から約230年前、徳川八代将軍の頃、日野郡の山奉行吉川右平太という人が、大山の祭日を期して牛馬市を開いたのが大山牛馬市の起源で、その場所がココ博労座なのです。その牛馬市、売買された頭数は1万頭にも及ぶという大規模なものだったそうです。
天保8年、この年は天下の大飢饉で大塩平八郎が乱をおこした年であり、この前後の年も大飢饉で多くの人達が横死しました。これを弔い、将来二度とこのような事がないように祈りをこめて天保12年に建立されたものです。
大山の自然、歴史についてわかりやすく、そして楽しさを織り交ぜながら開設。大山のお勉強、予備知識ゲットに欠かせないポイントして毎年多くの入館者を集めています。
大山寺周辺の宿坊にはかつて多くの文人が訪れました。なかでも有名なのが志賀直哉で、大正3年7月に宿坊蓮浄院に滞在。名作「暗夜行路」の終幕は、この時の体験をもとにして書かれたと言われています。この宿坊の石垣の脇に立つ地蔵こそ、蓮浄院地蔵です。
大山の名水の一つに数えられる「清浄泉」の横に立つ地蔵。大山寺造営のため京都から来た大工の頭領で、建立の際の妬みを受け、その後この地で切腹したといわれる「三輪平太」の墓があることでも知られています。
牛馬市が盛んな頃、日野、備中、美作から来る牛馬の鑑札を渡していた番所跡の近く、横手道から入る旧大山道沿いにある山王堂の跡地に、崩れた無数の石造碑が並んでいます。これが木ノ目地蔵。この道はブナの木が多く、春と秋は散策にもオススメのポイント。
昔、牛馬市の盛んな頃、日野、備中、美作(みまさか)から来る牛馬の鑑札を渡していた番所の跡であります。
文化4年、台貫(のちの画僧嗒然)が住職となり、その後多くの書画を残したことで知られる「円流院」を望む入り口の石段脇にぽってりと鎮座するお地蔵様。このあたりにかつて弁慶が愛馬を繋いだと伝えられることからそう呼ばれています。
文化4年、台貫(画僧嗒然)が住職となり、弘化3年大山雑考を編み、書画をよくし、その作品は今も珍重されているので有名なお寺。老朽化により平成21年に新築、一室には境港市出身の妖怪漫画家・水木しげる氏による108体の妖怪天井画落慶法要が描かれ、観光客の人気を集めています。
※現在、圓流院天井画の拝観は行われておりません。
山陰最大といわれた周囲10mもある老欅「赤松師欅跡」の近く、恵鏡院の寺坊跡に残る石垣の上にひっそりと佇むお地蔵さん。
周囲10mもある老欅で、雨の降る夜には必ず赤い法衣を着た若僧の亡霊が出たと伝えられる大山七不思議の一つ。
大山登山道の急坂にかかるあたり、西明院谷派の信仰の中心であった阿弥陀堂が、往時をしのばせこっそり建つすぐそばに建立。西明(さいみょう)地蔵と命名され、今日に至っています。
基好上人とは、承安の頃、天台の密教をもって天下に名を知られて高僧で、後に臨済宗の開祖となった栄西も基好上人に密教の教えを受けた。
大山寺に現存する寺院の中では最古の建築物。平安初期に創建、藤原期に建立され、亨禄2年(1529年)に山津波で倒壊。その後天文21年(1552年)、現在の場所に再建されたといわれる室町末期の建造物です。建物、仏像とも国の重要文化財に指定。
毎年6月、夏山登山開き以降、多くの愛好家で賑わう大山。「立正(りっしょう)地蔵」は、ある宗教団体が遭難者の慰霊のため、この地に建立した地蔵です。
行基菩薩が入山したとき、文珠の法に必要な水を湧かせたという言い伝えのある「利生水」の近く、静かに手を合わせて立つ地蔵さん。
大山寺が隆盛を極めた約500年の昔、この地に大山寺13堂塔の一つとして建立された「釈迦堂跡」の入り口に、一人ポツリと孤独を楽しむかのように立つ地蔵。
北壁を望む南光河原近く、大山にある七つの池のうち、最も小さい池が「烏ヶ池」。そのそばにある地蔵が烏ヶ池(からすがいけ)地蔵です。
大山寺隆盛の頃、南光院谷派僧坊がありましたが、金門を切り開いたため僧坊は両岸に移転し、この場所はその後河原となりました。
大山寺お参りの際に目に留まる手水鉢(ちょうずばち)。蓮型青銅製で重量約825kgという大きなもので、洗心(せんしん)地蔵はその傍らにポツリ。口をすすぎ、手を洗い、心を清らかにお参りくださいとの意を込め建立されました。
宝歴11年(1761年)、鳥取県東伯郡瀬戸の竹信佐五衛門尚信が奉納したもの。
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・佐々木高綱。彼が宇治川の先陣以来の功によって、建久4年、因伯の守護職として赴任中、大病にかかった際、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治しため、等身の地蔵が寄進されたと伝えられています。
この橋の裏には金剛経が刻んであり、この橋を渡ると一切の罪障が消滅すると言われています。
山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺。平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むに連れて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と 3000人以上の僧兵をかかえるほど。一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていました。本堂は天台宗の古刹で、昭和3年に一度焼失、同26年に再建されています。
牛の霊を慰めるために鼻ぐりの銅をもって鋳造し、岡山県岡山市の宗教団体「福田海」より寄進された像で、別名を撫牛ともいい、一つの願いだけを心に念じてこの牛を撫でると願いを叶えてもらえるという縁起のよい牛。
大神山神社に行く参道沿い、いつも赤い毛糸の帽子をかぶり、少し上を向いて立っているのがこちらの地蔵。この台座には、安永7年、備中の国小野重右衛門と親子4人の法名が正面に刻まれています。
約500年前、大山寺の僧兵は3,000人と言われ、勇猛無比の彼らの勢いは大山おろしと共に山陰を風靡していました。そして、この力石で平時お互いの力を競っていたと伝えられています。
大神山神社奥宮へと向かう日本一長いとされる石畳の参道から賽の河原へ抜ける入り口付近に、赤いよだれかけをした優しい顔のお地蔵さんが静かに座っています。
自然石の参道としては日本一の長さ。コチラでは大山の北壁から崩れ落ちた大小様々な石が金門へと流れ落ち、広大な賽の河原と出合うことになります。
岩山を二つに切り開いたような絶壁を容する神秘の光景こそが、信仰の聖地「金門」で、かつては修行の場となっていたと伝えられています。この地蔵は、昭和39年の台風で地蔵を祀った台座と共に流失し、現在の場所に再建されました。
かつて大山寺の僧兵は一騎当千勇猛をもって知られており、彼らは常識では考えられないような荒行に励んだと言われてます。その荒行の一つとしてこの岩から飛んで精神と肉体を鍛えたとのことで、この名が付けられたそうです。
金門を切り開いた際に立てられたから、切分地蔵。元は相当大きなものだったそうですが、こちらも昭和39年の台風で流失。今の場所に再建されました。
佐陀川の両岸には巨大岩石を半分に切ったかのような岸壁が向い合わせに立ちはだかります。そこは神門に例え御金門と呼ばれ、信仰の聖地として僧兵たちが修行に励んだ場所。
金門の南に広がる一帯。賽の河原とは三途の川と同意語で、死者の通る道とされ、ここが不毛の荒涼とした地帯であることから名づけられたそうです。幼い子供の霊を慰めるため、肉親たちが石を一つ一つ積み重ねながら詠唱する風習や塔婆流しがかつて行われていた名残が今なお続いています。
江戸中期の頃、会見郡の長者、吉持甚右衛門が経悟院住職・豪堅に仲をとりもってもらい寄進したもので、大山寺の数多い地蔵の中で自然石に刻まれた唯一のお地蔵様として語り継がれています。
明治8年9月30日、神仏分離、廃仏棄釈により大山寺号廃止となり、大智明大権現の社殿を大山寺より分離して、これを大神山神社奥宮としたもので、大国主命(大黒さま)が祀ってあります。自然石を敷きつめた国内最長700mの参道を抜け、見える境内は全国最大級の権現造り。国の重要文化財にも指定されています。
元徳2年(1330)、大神山神社を尊信した備中郡司渡邊日向の守の一子、照政公が、参拝の帰路、不慮の最後をとげ、後に白狐となり「吾をまつれ」との託宣があり、その霊をまつったとされる。ココ大山下山の地に小祠を建てた「下山善神」が起源。現在は県の重要文化財に指定されています。
扉が開かないようにするための閂(かんぬき)が外側についているので“逆門”とも言われ、もともと大山寺本坊西楽院の表門(宮家のお成門)にあったのが 1875年寺から神社に引き渡され、この奥宮の門に移転されました。その時そのまま移転したので後向きというわけなのです。
一乗院に所属していた若い僧兵・与七とその恋人・お里の悲しい物語が残る「お里の松」のすぐそばにある地蔵。ひっそりと佇む一本松が何だか寂しげな風情を煽ります。
大山寺の開基・金蓮上人が寂静されたという伝説の山で、山頂には金蓮塔もあります。なお、この辺りから僧兵武練の地など大神山神社奥宮の東側にかけて、中世以前の寺坊の存在を物語る地形が数多く残されています。
寂静(じゃくじょう)山の頂上に祀られているのがこちらのお地蔵さん。大山に初めてお寺を開いた金蓮上人を偲んで信者が彫ったもので、そばには金蓮上人のお墓といわれる五輪の塔もあります。
ここ寂静(じゃくじょう)山には僧兵達の遠い昔を偲ばせる場所が数多く残されています。「鎮魂地蔵」は、荒行によって神仏の霊験を感得しようとした僧兵達の鎮魂を祈って建てられたものだといわれています。
南北朝時代、名和長年の弟・信濃坊源盛が僧兵をひき連れて船上山の戦いに行くとき、この坂を一息で登ったことに由来します。この坂は後に源盛坂と呼ばれるようになりました。
ココ大山は、その昔、戦場などの通信手段として狼煙を上げ、遠方に合図を送っていた場所。そんなことから、こちらの地蔵は豪円山の南斜面を登った高台に見張り台があったことからも、この名前がついたといわれています。
豪円僧正を中興の第一世とし、第二世より第八世までの墓が並ぶ場所。大山は聖地とされていたため、遺体は埋葬されておらず、いわゆる詣り墓と呼ばれるものです。
この場所は、大山寺中興の祖である豪円僧正の墓所となってから豪円山と呼ばれるようなりました。その頂上に祀られるのが「豪円地蔵」。豪円僧正は大山寺領のことで米子城主と争い、死を前に「吾を葬るには須く米子城を俯瞰すべき地に於てせよ 吾必ず異日米子城の没落を見せよう」と遺言したため、米子城を望むこの地に葬ったと言われています。
標高は892m。古くは呼瀧山と呼ばれ、この山の北側の一部斜面には今でもわずかに瀧の流れがありますが、往時は、時にはその爆音が山野にこだましたことからこの名で呼んでいたと伝えられています。
古き名を持つ呼瀧地蔵は、豪円山に続く細い山道の中から入り込み、黒松林の中でくま笹に囲まれひっそりと立っています。
ココ大山は、江戸時代には、13の神仏を祀るお堂と、本坊西楽院のほか42寺院を有していましたが、栄枯盛衰のなか、明治8年の神仏分離令による廃仏棄釈の措置によって多くの仏堂などが破壊撤去され、現在は10ヶ院を残すだけに。その中の1つ、普明院に立つのがコチラのお地蔵さんです。
大山寺内に現存する三体の「立像石仏地蔵」の1つ。高さ2.4mの大地蔵には、南無地蔵大菩薩と彫りこまれており、作は江戸時代末期。光背は「舟形光」で、重ねた手の上に宝珠をのせ「どんな願いでも叶えましょう」と参拝者を見ながら佇んでいます。
その昔、大山寺には上、下、西明の3軒の豆腐屋があり、この地は上豆腐屋の跡地。ココに設けられた記念塔は明和9年、回国行者3000人の宿を提供した記念に建立したもの。
海抜750mの山腹に、わずか十指を数えるだけの寺院宿坊を残し、在りし日の面影をとどめるこの地域。十ヶ院の一つ、観証院に立っている「観証院地蔵」の姿は、時代の変遷を静かに見守っているかのように見えます。
日本海で船が難航したとき、杉の木のてっぺんから閃光がでて、方向を示したとされる霊木「灯明杉」のそばにあります。大山寺本堂のすぐ近くです。
その昔、日本海を回航する船が難航の折、とがった山頂から一大閃光を発し、方向を示したため難を逃れたと言われる霊木。
大山寺境内の鐘つき堂の横に宝珠を手に立っているのがコチラの地蔵。その隣には、大山では珍しい大山の山を「仙」と彫った貴重な石柱が建っています。
地蔵菩薩は大地の中に生命を育む力が蔵されているという慈悲深い菩薩で、修行僧の姿になって世に現れ、六道の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上までの六つの迷い)の人々を救うといわれています。こちらは仏教経典の中の地蔵経の本尊である地蔵菩薩を本地とし、大山古来の神霊とを結合させて大智明(だいちみょう)大権現としたそうです。
その昔、大山寺観証院に一人の高僧がおり、山内貝吹きの下流は下水不浄が混入し仏用水、飲用水にならなかったため、明王の石像を建立しその加持を受け、浄化を図るため阿弥陀川の石に像を彫刻させました。それがこちらの像です。