コース各所から「伯耆富士」の別称を持つ秀峰・大山の美しい姿を眺めることができる「太平記」の舞台・潮風のみち。そもそも「太平記」とは、後醍醐天皇が倒幕運動を開始した正中の変(1324)から、足利義満の将軍職就任(1367)まで、約40年間の戦乱を書いた、「平家物語」と並ぶ日本を代表する軍記もの。そんな太平記に綴られる歴史のステージをゆったり歩けるのがコチラのコースです。気分は大河ドラマの主人公。当時を偲びながらいざ戦乱絵巻へ。
※各ポイントの詳しい分岐点は下記「分岐点図」(PDF)を参照して下さい。
[散策コースMAP 分岐点(PDF 199KB)] [分岐点図01(PDF 68KB)] [分岐点図02(PDF 128KB)]
明治35年11月1日に、鳥取県ではじめて鉄道が開通。このときの開通区間が、物資の陸揚げ地である境港から、陸軍軍馬補充部を近くに持つ御来屋間でした。御来屋駅は、その当時の駅舎が現存しており、山陰鉄道発祥当時の面影を色濃く残す、山陰最古の駅。平成14年には、山陰鉄道発祥100周年を記念して旧駅舎を改修しました。
駅舎の歴史・・・開業当初の面影を色濃く残す、アンティークな駅舎。荷置き台などは100年前のものがそのまま残っています。山陰鉄道開通時の駅は、境港・大篠津・後藤・米子・淀江・御来屋の6か所。このうち開通当初の駅舎が残っているのは、コチラ御来屋駅だけです。
元弘3(1333)年に、隠岐の島を脱出された後醍醐天皇が、無事に名和湊(現在の御来屋港)に到着された際、しばらくの間お腰掛けになった岩と伝えられています。30年ほど前までは海の中にありましたが、漁港の改修により、そのままの位置で海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置しています。
お腰掛けの岩のすぐ南に存在。後醍醐天皇が御来屋に上陸されたときに、しばらく天皇をかくまった家に対して、後に鳥取藩がその功を賞して碑を建てたとされています。
摂津の国にある官幣大社・住吉大社の分霊をまつってあります。後醍醐天皇が隠岐の島から御来屋に上陸した際、コチラに奉幣したという伝説があります。隔年の11月3日は、住吉船曳神事(すみよしふなひきしんじ)で賑わいます。
住吉神社船曳神事(隔年)とは?・・・11月3日の文化の日、法被を着た保育園児や小学生が、4艘の船を御来屋の東の端から西の端まで引き歩き、着かざった大人たちは、歌ったり、踊ったり、船の回りを賑やかに囲むこの伝統神事。海の神を祀る住吉神社で、海の男たちの安全を祈願するお祭りだと伝えられています。
園内には、数百本の桜の木が植えられ、4月の開花時期になると、後方にそびえる大山や船上山にゆったりとたなびく霞に連なり、その景観は桜の名所として古くから定評があります。また、園内からは真っ青な日本海のパノラマを一望。ゴールデンウイーク頃には、つつじの名所としても多くのレジャー客で賑わいます。
大正天皇・昭和天皇がそれぞれ皇太子殿下の際、名和神社に参拝され、その際2度も休憩所として利用された建物を、当時のお供であった東郷平八郎が『重光亭』と名づけました。現在、休憩所は残っておらず、「碑」のみが公園内に佇んでいます。
後醍醐天皇を隠岐の島からお迎えし、一族郎党を率いて船上山に立てこもり、王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年公をはじめ、一族42人の英魂をまつった元別格官幣社。今の名和神社は明治16年、旧社(今の氏殿神社)をそのままに新しく建てたもの。また、この地は名和長年の倉の跡との言い伝えがあり、現在でも、社殿の裏から焼き米が出てくると言われています。
明治16年に初めて参道に桜が植えられ、以来「名和神社の桜のトンネル」として知られています。
名和氏2代の館の跡であったと伝えられています。中世の「武家造り」で、ここは当時、館の客間があった場所とも言われています。
名和公一族の菩提寺で、後醍醐天皇・名和長年・長年の長男の義高・三男の高光の位牌がまつってあります。寺紋は帆掛け船で、後醍醐天皇から名和氏に賜ったものです。
名和長年の菩提寺である長綱寺の裏山の山頂にあります。大小200基ほどの五輪塔があり、これらは長年が船上山で鎌倉幕府と戦ったときに戦死した一族をまつったもの、あるいは館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。
縦170センチメートル、横150センチメートルの大きな石。弓の名手であった名和長年が、弓矢の稽古をするときに的にした石と伝えられています。また、雨が降りやんだ後、太陽が照り出すと、石の表面に白く二重の輪が見えるという話も。
名和神社の旧社殿。もとは名和長年の館の跡といわれ、地元の人が「氏の殿」とまつっていましたが、江戸時代、鳥取藩主池田光仲公の命令で、「氏殿権現」としてまつられるようになりました。
五輪塔は5基あり、向かって左から名和長年。長男の義高、三男の高光の首が埋められていると伝えられています。
「左大山道」の道標が残っています。まさに霊峰として讃えられた大山へ続く大山道への分岐点です。
旧山陰道に沿って、昔ながらの情緒あふれる町並みが続きます。太平記のドラマが息づく時代へとタイムトリップするかのよう・・・。
別名「殿様道」とも言われる旧山陰道。ココに華やかな時代があったのでしょうね。当時の様子がしのばれます。
砂浜一面にハマヒルガオの群生があり、6月にはかわいらしい花を咲かせます。木料展望所も設置され、昼食や海岸での一服に最適のポイントです。
潮のかおりと静かな潮騒の中ゆったりと歩ける海岸ロード。砂浜をあるいてみるのもいいかも。
はるか西方に島根半島が望め、天気の良い日には島根半島も見えます。